Seasons Ⅰ "Spring"

Alice Lua ショートストーリー 「SeasonsⅠ~Spring~」
「ねえ、アリス。雪が降ってきたよ。こんなにあたたかいのに」
ある日のことでした。
人形劇団『赤いワンダーランド』のアリス ルアは、劇団員のイヌのシンとパンダのナダップ、そしてライオンのロニを連れて、人目を忍びながら夜の公園を散歩していました。
風がふわりと舞い上げた、月光に触れてキラキラと輝きながら自分たちに降り注ぐ薄いピンク色の“雪”を見て、不思議そうに言ったライオンのロニに、アリス ルアは微笑みました。
「違うわ、ロニ。これは桜というのよ。」
数百年に渡って心を探し、心を伝える旅を続けてきたアリス ルアは、動物人形達よりももっとたくさんのことを知っていたので、優しく教えてあげました。
「私たちの故郷のフランスにもあった花なのよ。私たちを造ってくれたチセに見せてもらったことがあったわ」
「そうだぜロニ! 知らなかったのかよ?」
悪戯っこのパンダのナダップはこれ幸いとばかりにライオンのロニを笑いますが、気高いロニはつんと顎を上げて聞こえない振りをしました。その様子を見ていたアリス ルアはそれを優しくたしなめます。
「もう、ナダップったら。あなたも見たことはなかったはずでしょ?」
気を取り直したロニは、アリス ルアに尋ねます。
「ねえアリス? たしか花にはみんな名前とか、言葉があるって聞いたよ。この花にもあるの?」
「もちろん。ええと、桜の花言葉は“優美”とか“豊かな教養”とか、“心の美しさ”とか……」
アリス ルアが思い出しながら一つ一つ答えていくと、それを聞いていたパンダのナダップは口を大きな弓の形にして笑いました。
「ケケッ。何にでも意味を持たせたがるのは人間のクセだよな。花はどこまでいっても花で、意味なんてねえのによ」
「こらナダップ、アリスがせっかく教えてくれているのに茶々を入れちゃダメだよ」
アリス ルアを護るナイトになりたいと願う真面目なロニは、ナダップの言葉に尻尾を立てますが、ナダップはそんなことを気にも留めず舞い落ちる桜の花を捕まえようとあっちこっちを走り回っています。あんなことを言いながらも、ナダップは彼なりに楽しんでいるのがアリス ルアには分かっていたので、そのまま話を続けました。
「いいのよ、ありがとう、ロニ。……そうね、あとは……桜の種類によっても言葉は決められていたかなぁ。“ごまかし”“気まぐれ”……それに──」
その瞬間。
ひときわ強く吹いた風が、桜の花びらを巻き上げました。吹雪みたいになって降り注ぐ花びらはアリス ルアをカーテンのように覆い、桜の花びらの香りいっぱいに包まれたアリス ルアの胸の中に、今はもういない、創造主のチセと一緒に桜を見た時のことが、閃光のように蘇ってきました。
──強い風に押されて揺れる身体。
二人を包んだ花びら。
桜の香り。
降り注ぐ銀色の月の光。
私の手を握るチセ。
滲んだ瞳。
チセがもう声の出ない喉を震わせて言った、あの花言葉──
──“私を忘れないで”──。
「アリス? アリス、どうしたの?」
自分の手を引っ張りながら心配そうにするロニの声で、アリス ルアはハッと我に返ります。イヌのシンも鼻を鳴らし、悪戯者のナダップも不思議そうに見ていました。
アリス ルアは人形です。いつまでも変わらない、不変の人形。だから、見たもの聞いたもののことを忘れてしまうことがありません。あまりに鮮明に蘇った思い出に一瞬囚われてしまっていたのです。
アリス ルアは自分のことを心配そうに見つめる三匹に、今見たもののことをゆっくりと語り始めました。
「……チセは、言っていたわ。“私を忘れないで”、って。それも、桜の花言葉の一つなんだって。でも、あの時チセは……それを、自分の願いのように言っていた気がする」
舞いあげられた桜は最初の勢いを失って、ぽつりぽつりと語るアリス ルア達にゆっくりと降り注いでいました。まるでロニが最初に言った、雪のように。
「その時に話したことがもう一つあるの。この世から消えてしまうってどういうことだと思う? って。死んでしまうことや、燃えて灰になってしまうことではないの。誰の心にも残らなくなった時──忘れられた時なんだって」
「そんなこと知ってるぜ! だからチセはアリスやオレたちを造ったんだろ? 歌えなくなったチセに代わって、俺たちでチセの歌や物語を歌い継いでいく為によ」
「そうだよ。そしてチセのことだって、僕たちがずっと憶えてる。だからチセも僕たちと一緒に今もいてくれるんだ」
ナダップやロニの言葉にアリス ルアは頷きます。
「うん。……でも今、ふと思ったの。それじゃあ、私たちのことは誰が覚えててくれるんだろう? って。この旅の中で出逢ってきたみんなは、いつまで忘れずにいてくれるんだろう、って……。」
アリス ルア達は長い間旅をし続け、チセが遺してくれた歌や物語で人々を笑顔にしていきました。そうした出逢いの中で、新たに生まれていった物語や歌もありました。
でも、人間は自分たちと違って歳をとります。アリス ルア達のように、いつまでも変わらずにいることはできません。やがて忘れ、死に至り、いつかは自分達のことを誰もが忘れてしまう時が来るのではないか、という不安にアリス ルアは駆られていたのでした。
ああ──、とアリス ルアは思います。
きっとチセは、こんな気持ちであの言葉を呟いたんだ。
その時、イヌのシンがくーん、と鼻を鳴らしながらアリス ルアの脚に頬をすりよせました。同時にロニも、アリス ルアの手をぎゅっと握ります。アリス ルアが驚いていると、ロニはありったけの勇気を振り絞ったような、真っ直ぐな瞳で言いました。
「僕たちがアリスのことを忘れないよ。これから先も、ずっと」
ナダップはロニの言葉を聞いて大げさにため息をつきます。
「当たり前のこと言うなよ、ロニ。オレ達は変わることができない人形だからよ。忘れようったって忘れられねーだろ」
「ナダップ! 君はまたそういう……」
「だからよ──オレも、忘れないでおいてやるよ。……それでいいんだろ?」
背中を向けて顔を隠しながら言うナダップに、真っ直ぐに想いを届けてくれるロニとシン。みんなの優しさに触れたアリス ルアは、そういうことじゃないんだけどなあ、と苦笑いしますが、まあいいか、と大きく息を吸いました。
「ありがとう、ロニ。ナダップ。シン。──私も、みんなのことを忘れないからね」
「まったく見てらんねーぜ。傷の舐めあいっこなんてよ」
「ナダップ! 本当に君ってやつは……」
そうしてみんなでお互いのことを忘れないようにと誓い合って、微笑みあって。桜の花びらが舞う穏やかな夜に笑い声が満ちてゆくのを、お月様は静かに見守っていました。